第2話【ジャン・ヴァルジャンの秘密】

 ワーテルロー亭では女将達が養育費を取って預かっているコゼットを下働きのように扱い、
娘のエポニーヌとアゼルマも次第にそれに倣うようになっていきます。
今朝のコゼットは男の子の嫌いな女将に赤ん坊のガヴローシュの子守を言い付けられました。
小さな身体で乳母車を押すコゼットが子守唄を口ずさみながら、それを自分のために歌って
くれた母を想ってファンティーヌのいる北へ向かう街道を遠く眺めているのと同じ頃、その
ファンティーヌは町の黒ガラス工場に勤め始めます。

 その日アランは昨日自分を捕まえたマドレーヌに雑用係に雇うと言われて、彼がどういう
つもりなのか半信半疑でしたが、弟妹のダニエルとマリーのためにも仕事は要ると思い直し、
ためしに市庁舎に行ってみる事にしました。
そこでマドレーヌはまだ働くかどうか決めかねているアランに有無を言わさず修道院の
付属病院にいるシスター・サンプリスまで手紙を運ぶように言い付けます。
しかも、その中には1000フランもの大金が入っているというのです。
(第1話でパン屋が売る中位のブールパンが2スーでしたので、1スーを100円として、
1フラン=20スーですから、当時の1000フランは今の200万円ほどでしょうか)

 道すがら、泥棒をした赤の他人の自分にそんな大金を預けるなんて奴はどうかしている、
持ち逃げされるとは思わないのか? いっそこのまま持ち逃げしてしまおうか? アランは
そんな誘惑にかられ悩みます。でも自分を信じてくれた人を裏切る事は少年には出来ません
でした。それは、人を試す、というより、信頼を与えられた人間はその信頼を裏切らない、
というマドレーヌの信念のようなものを少年が感じ取り、無意識にせよ、少年もまたそれに
応えたいと思ったのかもしれません。

 着いた先で出迎えたシスター・サンプリスから、自分に託された金が慈善病院の為のもの
であり、市長の援助によって貧しい人々でもここでは医療を受けられる事を教えられます。
もしこの町に住んでいたなら自分の母も死なずに済んだのではないか、貧乏ゆえに医者にも
かかれなかった悲しい思い出が少年の胸を締めつけました。マドレーヌが恵まれない人々に
示す情愛は本当のものなのか、他人の為に人がそこまでするのを見た事が無かったアランは
それを知りたくて、しばらく彼についていく決心をするのでした。

 ある雨の日、マドレーヌが執務室で新聞を見ながら物思いに沈んでいるのを見たアランが
訳を聞くと、昔市長がディーヌの町でお世話になったミリエル司教様が亡くなられたという
事でした。マドレーヌは昔語りに司教の人となりを話します。
ジャン・ヴァルジャンという元徒刑囚がミリエル司教の無私の愛に救われた経緯をアランに
話しながら、マドレーヌの想いはその当時に遡っていくのでした。

 一緒に暮らす寡婦の姉とその子供にせめて一口の食べ物を与えたくて、貧しさに負け1本
のパンを盗んだジャン・ヴァルジャンは5年の刑を受けトゥーロンの徒刑場へ送られたので
すが、家族の事を心配して脱走を幾度も試み、その度に刑期は延ばされました。
 彼が盗みの罪を犯したのは確かでしたが、長年の重労働を科せられ、看守たちから蔑まれ
鞭打たれたそれはあまりに過酷な罰でした。ジャン・ヴァルジャンがやっと出獄できたのは
19年も後の事で、その頃には彼の心は世の中の全てを憎むほど荒んでしまっていました。
 出獄後もあまりにみすぼらしいその姿から彼が元徒刑囚である事が知れて、食堂も宿屋も
彼を拒絶して、手を差し伸べてくれる者もなく彷徨い歩いているうち、あの方ならあるいは、
と言われたのがミリエル司教のその地位に比べれば質素な司教館でした。どうせ断わられる
とは思いながらそこに行ってみると、司教は彼を家に迎え入れて銀の食器に盛らせた食事と
一夜のベッドを与えてくれました。そんな司教の恩に報いるに、あろう事かジャン・ヴァル
ジャンは銀食器を盗んで逃げ、すぐ憲兵に捕まって、司教の前に引出されます。
 さぞ司教から忘恩の徒と詰られるものと待構えていたジャン・ヴァルジャンは自分の耳が
聞いた言葉を信じられませんでした。
銀食器は盗まれたのではなく司教がジャン・ヴァルジャンにあげたというのです。その上、
司教はさらに銀の燭台を持ち忘れていったのでそれも持って行くようにと燭台を差出します。

「決して忘れてはなりませんぞ、あなたがその銀を心正しい人になるために使うと約束した
事を……」
ミリエル司教の言葉に頑なに鎖されていたジャン・ヴァルジャンの心は戦慄き震えました。

 その後のジャン・ヴァルジャンはどうなったのかと、アランに訊ねられたマドレーヌには、
知らないと答えるしかありませんでした。何故ならモントルイユ・シュル・メールの現市長
マドレーヌこそ、そのジャン・ヴァルジャンの今の姿だったからです。
 話を聞き終えたアランにその司教様はまるで市長のような人だと言われたマドレーヌは、
自分などまだまだ司教様の足下にもおよばないと自戒するのでした。

 やがて3年あまりが過ぎました。
6歳になったコゼットは相変わらず、いえますますテナルディエ一家から灰かぶりの下女の
ように扱われ娘達にも苛められる毎日を過ごし、そんなコゼットに唯一味方してくれるのは
実の母である女将からの愛薄いガヴローシュだけです。
 今日も今日とて、コゼットにおやつを取られたと嘘をつき女将に言いつけるエポニーヌの
意地悪に気づいたガヴローシュは姉達の隠しておいたおやつを持ち出し、コゼットと二人で
食べてしまい、仕返しします。
 丘の上で二人並んでおやつを食べながら、母の迎えを心待ちにするコゼットは、その時は
カヴローシュも弟になって一緒に行こう、と約束します。

 モントルイユ・シュル・メールでは町の人々の生活をより良くしようと身を粉にして働き、
その上私財を使って慈善事業を進めるマドレーヌの姿を見てきたアランはすっかり彼を尊敬
するようになり、今ではその片腕となって働いていました。
 そんなおり、季節外れの嵐とともにマドレーヌの許に彼の秘めた過去に繋がるもう一人の
人物が現れるのでした。